“鬼才”デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督

2010年代に台頭してきた“鬼才”と呼ばれる新進気鋭の監督として、デンマーク出身のニコラス・ウィンディング・レフン、 イギリス出身のエドガー・ライト、イタリアのマッテオ・ガローネ、ギリシャ出身のヨルゴス・ランティモスなどが挙げられますが、そのような監督の一人として数えられているのが、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督です。

『イット・フォローズ』で有名ですが、特に個人的に、『アンダー・ザ・シルバーレイク』は、これぞ映画らしい映画と感じる、お気に入り作品の一つです。

また、脚本がよく練られていて、今回は、『アンダー・ザ・シルバーレイク』について、考察をしたいと思います。

映画やサブカルチャーのオマージュとしての『アンダー・ザ・シルバーレイク』

『アンダー・ザ・シルバーレイク』を見れば、分かると思いますが、映画や音楽やゲームといったサブカルチャーへのオマージュに溢れています。

特に、『アンダー・ザ・シルバーレイク』のストーリーと密接に関係している、映画俳優や映画作品のオマージュを、いくつか上げたいと思います。

マリリン・モンロー『女房は生きていた』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』

まず、第一のオマージュが、マリリン・モンローです。

特に、サラが失踪した後に、サムがプールで裸で泳ぐサラを幻視する場面があります。

これは、マリリン・モンローが、亡くなる直前に撮影していた『女房は生きていた』という作品のワンシーンをオマージュしたものです。

これは、サラが生きているのと、他の男性とどこかにいることを暗示しています。 

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『マルホランド・ドライブ』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』

そして、第二のオマージュは、俳優のパトリック・フィッシュラーとデヴィット・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』です。

パトリック・フィッシュラーは、『アンダー・ザ・シルバーレイク』で、ハリウッドを支配している”もの”に繋がる、入口への鍵を提供する重要人物、“コミックマン”として、登場していますが、デヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』でも、同様の役割を果たしています。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』が、この『マルホランド・ドライブ』を意識しているのは明らかです。

共通点として、ハリウッドが、見えない権力によって操られていること、ほとんどの人たちが、何らかの役割を担わされている駒にすぎず、代替可能な存在であること、真実を暴こうとする者は消されることが上げられます。

ジャネット・ゲイナー『第七天国』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』

そして、第三に、この映画の鍵となっていた人物が、『スタア誕生』などで有名な大女優のジャネット・ゲイナーです。ジャネット・ゲイナーは、交通事故の後、復帰できずに、亡くなっています。

そして、ジャネット・ゲイナーがヒロインを努めていた『第七天国』の映像が、最後の方に出てきます。

そして、その中で「下を見ないで、上を見て」と言う台詞があります。

下水道の清掃を仕事とするシコが、姉に虐待を受けていたディアーヌを保護し、二人は7階にあるシコの部屋で結婚生活を始めます。

ところが、シコは兵隊として召集されてしまい、妻のディアーヌは、シコの帰りを信じて、7階の部屋で待ち続けます。しかし、シコの戦死を知らされ、ディアーヌは、絶望します。

しかし、夫のシコは、視力を失いながらも、ディアーヌのいる部屋に戻ってきます。

そして、シコは、次のように述べます。(下界の苦難を経験することによって)、自分の中に神がいることと、自分が特別な存在であることに気づいたと述べています。

真実は、上(地上)ではなく下(地下)にある

つまり、実際は、上ではなく、下(アンダー)に真実(意味)があるわけです。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』の映画でも、冒頭から、サムの注意を、上に向けようとする意図が感じられます。

木の上から落ちてくるスカンク、花火、野外スクリーン看板、丘の上にある屋敷、グリフィス天文台などが、多く上げられます。

人々の意識を上に向けさせて、その間に、下で、何かが動いています。

だから、花火や看板などは、コミックマンから教えてもらった記号(暗号)と同様に、真実(コード)を知るものにとっては、信号(シニフィエ)になっているのです。

サラは、花火が上がった後に、失踪します。丘の上の作曲家の屋敷や天文台に行くと、真実を明かされます。

その意味では、上を見ろ、下を見るなは、間違ってはいません。道路(下)に書いてある、“犬殺しに気をつけろ”ばかりに、気を取られていると、真実を見失ってしまいます。  

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アルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』

『アンダー・ザ・シルバーレイク』において、もう一つ、強いオマージュが感じられる映画が、アルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』です。

恋人のリザを演じているグレース・ケリー(後のモナコ公妃)も運転中の発症により、事故死しています。

『裏窓』のジェフ同様に、サムも、暇を持て余していて、双眼鏡なども使って、近所の女性たちを覗くのが、日課になっています。

『裏窓』という作品が、特に、興味深い作品になっているのが、本当にセールスマン(ソーワルド)の妻が、殺されていたのかが、はっきりしないまま映画が終わっている点です。

いや、もっと正確に言うならば、覗き見をしているジェフやリズやステラを通して、さらに覗き見しついる映画の視聴者たちを、セールスマンが妻殺しをしたように誘導している点です。

そもそも、ジェフが寝ている間に、妻らしき女性は家を出ています。また、ドイル刑事を始め警察は、妻の所在と荷物の受理を確認したと主張しています。しかも、彼は宝石商の仕事をしています。

また、ソーワルドは、犬殺しの疑いもかけられ、花壇を掘り返えしますが、何も出てきません。

ここで『アンダー・ザ・シルバーレイク』と関連付けて考えると、まずは、妻は本当は生きていると言うこと、真実は窓(上)からではなく下にあるということ、犬殺しは、真実を隠すためのカモフラージュであることなどが共通点として挙げられます。

ドイル刑事を始めとした警察は、ソーワルドに関する別の真実を知っているように感じます。

誰かに付けられているという不安

この『裏窓』の覗き見をオマージュしているシーンが、もう一つあります。それは、現代版『裏窓』を感じさせる、友人がドローンを使って、覗き見をしている場面です。

覗かれている女性は、突然、何かに耐えられなくなったように、泣き出します。これは、『裏窓』のミスロンリーハートと呼ばれる女性を連想させます。

それと同時に、サムは友人に、何かに付けられているような不安に悩んでいることを打ち明けます。

これは、『裏窓』のラストで、構図が反転しているように、『アンダー・ザ・シルバーレイク』でも、覗いている側が、実は、覗かれているという構図が、成立しています。

また、自分が何か他のものになるものだと思っていたと述べています。

なぜ、サムはそのように何かに付けられているような不安を感じているのかと言うと、人が、社会で生活する中で、ハイデガーの言う、“世人”として過ごしてしまうからです。

つまり、社会生活において、私たちは、世間が求めるに行動して過ごしているからです。それは、世間の目を、常に意識していることを、意味します。

しかし、それは、本来の自分とは、正確には異なるものです。だから、不安に感じたり、不快に感じたりしているわげです。

しかも、サムは、家賃が払えない状態であるのにもかかわらず、定職に就かず、陰謀論に取り憑かれるほどの暇があります。

それは、売れないながらも、俳優であり、交友関係が広いことも関係しているわけですが、“世人”に支配されない存在であるとも言えます。

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トマス・ピンチョン『インヒアレント・ヴァイス(LAヴァイス)』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』

『アンダー・ザ・シルバーレイク』ストーリーは、日本人からすると、村上春樹の羊三部作やねじまき鳥クロニクルなどの作品を連想させますが、もっと近いと思われるのが、アメリカの現代小説家のトマス・ピンチョンです。

トマス・ピンチョンの作品で唯一長編映画化されている、『LAヴァイス』を原作とした、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『インヒアレント・ヴァイス』についての記事を以前書きました。

 この『インヒアレント・ヴァイス』と『アンダー・ザ・シルバーレイク』には、多くの共通点があります。

 特に、それぞれの主人公であるドッグとサムについて言えば、先述の通り、世人になっていない人物であり、ドゥルーズで言えばリゾーム的に行動する人物であり、浅田彰で言えば、スキゾキッズになります。

サムもドッグも、富豪の失踪とともに居なくなった、忘れられない女性を見つけるために奔走し、社会を支配している謎の組織を僅かに交わしながら、ついに女性に再会します。

両作品とも、陰謀論を軸に展開されていて、ドラッグや音楽や映像などによって、人々は、世人である不安や違和感を麻痺させられています。そして、違和感から真実に触れようとしたものは、消されてしまいます。

そこで、暗躍しているのが、『インヒアレント・ヴァイス』では、“ゴールデン・ファング”であり、『アンダー・ザ・シルバーレイク』では、“ふくろうのキス”ということになります。

陰謀論と作曲家とネオリアル(ハイパーリアル)

『インヒアレント・ヴァイス』同様に、『アンダー・ザ・シルバーレイク』のストーリーの骨格を支えているのが、サムがパラノイア的に信じる陰謀論や都市伝説です。

ただ、トマス・ピンチョンの小説と同様に、サムの妄想を、娯楽要素だけを重視して用いられているというよりも、現実の正体を顕在化するための要素として、効果的に用いられています。

特に、“作曲家”の存在が、この物語を語る上で、重要な要素になっています。

“作曲家”は、サムに重要な真実を告白しています。それは、サムが大好きなニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を始め、サムの知っているヒット曲は、全て自分が作曲したものだと言うのです。

その後、ショックを受けたサムは、ピストルを向けてきた“作曲家”を、発作的に殺してしまいます。しかし、そもそも“作曲家”自体が、現実社会が生み出した幻影であり、存在していないがために、サムが逮捕されることはありません。

これは、ヴァルター・ベンヤミンやジャン・ボードリヤール以降、繰り返し言われているように、私たちは、メディアを通して、複製されたのハイパーリアルの世界を生きており、それらを再生産するための駒に過ぎないという現実を形容しているものだと考えられます。

また、上に挙げた『アンダー・ザ・シルバーレイク』のストーリーに合わせて登場する映画たちは、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の映画へのオマージュだけではなく、このストーリーの主題である、複製された現実を体現したものと思われます。

集合的無意識と別次元にある“意識”

 そして、サムが辿り着いた真実が、富豪たち(選ばれた人々)が、自ら(偽装)失踪し、地下に潜っているというものです。

これは、村上春樹作品で言うと、主人公が井戸や掘った土の中に籠る行為に近いものだと考えられます。

 これは、ユングのいう集合的無意識の世界に潜りつながることで、認識を超越した開かれた世界に到達することができるという世界観が見え隠れしています。

また、意識は別次元に存在するという量子力学の仮説の1つで考えれば、別次元へ行くという世界観と見ることができます。

これは、『攻殻機動隊Stand Alone Complex』シリーズなどにも見られます。

また、『裏窓』や『マルホランド・ドライブ』も、集合的無意識の世界を表現した作品と捉えることもできます。

ラストにおけるサムの行動と、サムの笑みと鸚鵡の鳴き声が意味するもの

ラストシーンでのサムの行動が、何を表しているのかがとても気になります。

まず、サムと同じアパートに住む、サムが覗いていた鸚鵡を飼っているトップレスの女性の元を訪ねます。

ここで、なぜ訪ねる必要があるのかという点です。どうしても頭を過ぎるのが、『裏窓』です。 『裏窓』の人々は、愛を待つ女性達が描かれています。

むしろ、愛を待つことが、人間の本質であることを示しているようなストーリーなのです。

だから、愛を待つトップレスの年輩の女性の元を訪ねるのではないのかと思うのです。

そこで、鸚鵡が何と言っているのかを女性に尋ねます。そして、分からないと答えるのですが、彼女は鸚鵡が何を言っているのかを気にさえしていないのです。

鸚鵡は、何かを意味する言葉を、もともと発していなかったというのが、おそらく答えなのだと思われます。

なぜなら、この世界は、ハイパー・リアルであり、つまり、複製(模倣)された無意味な世界だからです。

だから、サムの部屋に立ち退きを求めて入る管理人と警察官を見て、笑みを浮かべます。

彼らが、部屋に書かれた記号の意味を知らない、社会で何者かの役割を与えられた人々だからです。

 それに対して、サムは、アンダー・ザ・シルバーレイクにある真実を知っています。

言い換えれば、アンダー・ザ・シルバーレイクの真実とは、“この存在意義を失った複製された世界で、愛を待ち続けることが、人間の本質である”という真実です。

これは、先述の『インヒアレント・ヴァイス』のラストでドッグが笑みを浮かべる場面と類似しています。

ドッグもサムも、世界の真実を知る、社会の何者でもない人物(ヒーロー)だと言えます。まさに、スキゾキッズ的存在なのです。